同人音楽の世界は、とても豊穣なものである。Sound Horizon, 志方あきこを生み出したこの創作空間が、芸術文化としての価値を持ち得ないはずはない。
たとえ創作の動機が現実からの逃避であろうとも、現実に生まれた創作空間、そして文化は、間違いなく21世紀の日本が世界に誇ることのできるオリジナルな芸術文化である。
枠組みとしては同人文化がオリジナルの芸術文化であることには疑いを持ち得ないとしても、現実に生まれた作品を眺めると少々疑念がないわけではない。芸術としての価値を持つと認められるほど、実際にクオリティの高い作品はどれだけあるのだろうか?
確かにわずかには存在する。しかし、全体にクオリティコントロールの網がかかっていない文化である同人音楽文化では、必ずしもクオリティが高いとは言い切れない作品も大量に世に問われる。それでもかまわないのだろうか?
全くかまわない。
自由に作品を創作し、自由に発表する。この自由は、言論・表現の自由として政治的に担保される性質のものであるだけではなく、芸術文化の未来の可能性を担保するために欠かすことのできない自由でもある。創作と発表の自由を担保しなかった場合、未来の可能性はその分縮小する。未来の一形態をコントロールすることはまだしも、未来の全体像をコントロールしてはならない:「その方向へ向かわないかもしれない」という可能性はどう考えているのか?
文化の未来は、どんな方向へ向くか全く分からない。だからこそ、自由を担保しなければならないのである。
では、発表の自由は本当に担保されて良いのだろうか?
発表するためには社会が保有するリソースが必要である。リソースが有限であれば、その有限のリソースをどんな作品に割り当てるか?という問いが発せられる。むろんのこと、リソースの割当は全体としての価値が最大化されるように割り当てられることが正当であり、たとえ真の最大値を導くことが難しいとしても、少なくとも価値の最大化はもくろまれなければならない。
インターネット以前、古典的な音楽事務所および録音レーベルの仕事は、まさにこの部分の最大化であっただろう。より価値の高い作品を求め、有限のリソースをより価値の高い作品に集中投資する。
しかし、インターネットの出現は社会の保有するリソースを事実上無限大に、実際には無限ではないとしてもきわめて広大なものとしてしまった。そのような状況では、「あらゆる作品も価値が負ではない」という仮定をおくだけで「あらゆる作品は発表される価値があり、発表の自由が認められるべきである」という結論を導くことができる。
実際、インターネット時代の音楽文化は、数限りないホームページによって牽引されている。特にアマチュアリズムの文化は「新しく手にしたリソース」であるインターネットを最大限に活用し、新しい音楽が日々大量に発表され続けている。
さて。インターネットが出現したとしても、有限の社会リソースが必要な類いの音楽的営みは厳然として存在する。たとえば公演や、有体物にパッケージングしての作品リリース。これらの営みに対して、社会的なリソースは割り振られるべきなのか。
後者は意外と簡単な議論ができる。たとえば、CDを1,000枚プレスし、印刷物を作ってパッケージングするとする:CDプレス業者にとっては、有名アーティストのCDだろうが、有名ではないが良いものを作るアーティストのCDだろうが、有名でもなく良いものを作ることもできないアーティストのCDだろうが、1,000枚プレスするためのコストは同等である。であれば、料金が同等であれば、3人の誰にリソースを提供しても「経済学的な合理性」は失われない。しかも、プレス工場のラインに関しては比較的余裕があり、恒常的に需要に応じきれていないとは言えない程度のリソースは存在している。かくして、CDプレスの類いのサービスにおいては、リソースが同人サークルにも適切に配分される。
問題は舞台公演。舞台は有限のリソースであり、しかも東京などの都市部では需要に応じきれていないと考えられるリソースである。そのような状況で、同人サークルに対して舞台公演を行うことが許されるべきなのか。純粋に芸術文化のクオリティのみを評価基準とした場合、舞台公演を行うことは基本的に許されない、という結論しか出てこない。
実際、一部のホールでは貸し出し審査が厳しいため、同人サークルでの舞台公演では借りることはきわめて困難と考えられるホールが実在している。
しかし、芸術文化の多様性を担保するという観点からは、このような審査はどうなのか。やはり問題なのではないか。実のところ、公営ホールの多くにおいて貸し出し審査は「形式的審査」にとどまっていると考えられ、このことは「公営ホールの任務」が芸術文化の多様性を担保することにあると考えることで説明がつく。
かくして、ある程度の社会リソースが同人的な文化(=公に認められる判断基準によるクオリティコントロールを受けない文化)に提供されることは、ある程度のレベルで正当化できるだろう。